フィリピンに恋して。
~フィリピン・バギオのリアルライフ~
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イフガオで結婚式を挙げた話③~現地入り編~

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12月27日 8日前~バギオ入り~

12月27日、私たち家族はバギオ入りした。
自宅から空港まで車で2時間半、成田からマニラまで飛行機で5時間、さらにマニラからバギオまで車で6時間。
午前2時に家をでて、宿泊先のアパートに着いたのは午後8時40分だった。

ニノイ・アキノ国際空港の第1ターミナル出口では、義父、義母、義叔父、義叔母、義姪の5人が、私たちを出迎えてくれた。
3歳になったばかりの娘にとってはこれが初の長距離移動であったが、機中ではずっと私がトイレ前のスペースで抱っこしていなければならなかったこと以外は、特に大きな問題もなかった。

今回のバギオ滞在では、夫の元教え子の両親であるアリピン夫妻が、所有しているアパートの一室を無料で貸してくれた。アリピン夫妻には、結婚式でのゴッドファザー・ゴッドマザーの役目も担ってもらっている。
*ゴッドマザー/ファザー…新郎新婦の第二の親として、挙式への金銭的なサポートや、助言やアドバイスをしたりする。

そこは2019~2020年に約7か月間、夫とコロナウイルス蔓延による隔離生活を共にしたアパートのすぐ隣で、普段はアメリカで暮らす夫妻が長期休暇で帰郷したときにだけ寝泊りする家の真下にあった。当時私たちが暮らしていた部屋の二倍くらいの広さがある。

冷水修行を覚悟していたのに、初日から温かいシャワーを浴びることができた。この時期のバギオは夜は10度近くまで冷え込むこともあるので、本当に嬉しかった。
それだけでなく、夫妻は到着が遅くなった私たちに翌日の朝食用にとスパムや娘の牛乳まで分け与えてくれた。

愉快にギターで弾き語りをするUncleボブの横で、Antiリンは「あなたたちは家族同然だからいいのよ」と明るく笑いながら言った。

12月28日 7日前~市場で両替~

翌日はとくに人と会う予定はなく、唯一バギオでゆっくりと過ごせる日だった。
家の前のサリサリストアのおばちゃんに顔を見せに行ったら、目を丸くしておったまげていた。

▼おったまげるおばちゃん

コロナでロックダウン中、スーパーにすら行くことが制限されていたので、毎日のようにここにきては食材を買っていた。お店も厳しかっただろうに、いつ行ってもおばちゃんはせっせと働き、ひまわりのような笑顔で迎えてくれた。

いつも2人でお世話になっていた場所へ今度は娘を連れて3人で戻ってくるなんて、なんだか感慨深かった。

油断すれば座席から落ちそうなくらいギュウギュウ詰めのジプニーに乗って、私たちはパブリックマーケットへ向かった。
「パラポ!(降ります)」という合図も、容赦なく顔面に降りかかる排気ガスさえも、すべてが懐かしい。

マーケットについて、まず向かったのは両替所だ。
元締めの両替所であればいくらかレートがよい。バギオに住んでいたときは毎回使っていたのに、久しぶりで探すのに15分以上かかってしまった。

「日本円の両替してる?」
「してるよ」
「一万円だといくらになる?」
「3780ペソ」
「オーケー、ありがとう」

こんな感じでいくつかの両替え所を回り、一番レートのよいところで換金する。
この日はようやく見つけたいつもの元締めで、両替10000ペソが3870ペソになった。他のところはよくて3800ペソだった。

結婚式が行われるイフガオ・キアンガンにはクレジット払いは存在しない。だから、挙式にかかる費用はすべて当日現金払いだ。
予算は100万円までと決めていた。キアンガンでの伝統的な結婚式は40~50年前を最後に例がないので一般的な予算はわからないが、豚や牛の一頭あたりの金額からおおよそ算出した。
そこから往復の飛行機代を差し引いて、現地で使えるのは62万円だった。
私たちの62万円がたったの23万9940ペソに早変わりしてしまった。下手なマジックショーでも見せられた気分だ。円安に呪いをかけながら、紙袋に入れられた札束を夫のナップザックにしまい、胸の前に大切に抱えた。
札束を持ってウロウロしたくなかったが、この日を逃すとマーケットを楽しむ日がなかったので、注意をはらいながら市場を散策することに。

夫は、職場へのお土産といって10ペソのマグネットを100個も買っていた(笑)マグネットを1000ペソ分も大人買いするなんて、私の貯金を切り崩しながら毎晩手元に残った小銭を数えて暮らしていた頃に比べたら、いくらか成長したのだと実感した。
その横で私は貧乏性を発揮し、15分も悩んだ末10ペソのブレスレットを二つ買った。

夜、アパートの部屋に戻ると義妹がピニクピカンをふるまってくれるといって鶏を仕込んでいたが、料理開始から二時間後に、できあがりが翌日になるとの理由で急遽レストランのテイクアウトに変更となった。

12月29日 6日前~食材調達~

朝から結婚式の食材調達のため再びパブリックマーケットへ出かけた。
現地語での値下げ交渉が必須な買い物は義母と夫に任せて、私は一瞬の隙に人混みに消えていく娘を見失わないよう追いかけるのに必死だった。

▼ピーマンの価格交渉をする義母

キャベツ18kg、じゃがいも60kg、ピーマン5kg、ニンジン30kg、玉ねぎ?kg、ニンニク?kgを購入。
全部で13000円だった。
これをどうやって車まで運ぶのかと思ったら、そのへんを歩いていたクヤにチップを渡して、木製の台車で運んでもらっていた。

この日の夜は、娘の誕生日会(という名目の、義父サイド親族食事会)が開催された。
結婚式が行われるイフガオ・キアンガンは、義母の故郷だ。
義父はマニラ出身で、今はバギオに住んでいる。バギオからキアンガンまでは車で6時間ほどかかるため、義父サイドの親戚はほとんど結婚式に来られない。
だから、先にバギオで祝賀会も兼ねて食事をしようと提案された。

名目上はうちの娘の誕生日会なので、費用はこちら持ちだ。
最初30人と言われていたのに、一週間前になって40~50人くると伝えられた。
実際に集まった人々を見渡すと、老若男女さまざまだが、親族なので顔は似ている人が多かった。

▼本当に50人来た

もはや誰が叔母で誰が祖母かわからない。私は顔と名前を覚えるのを早々にやめて、目の前のバターチキンを味わうことに集中した。
目の前に座っていた人に関係性を聞くと、義父が以前勤めていた会社の元同僚とその息子だというので、「ようこそ」という他なかった(笑)

私は、イロカノ語が飛び交っているのをほぼ二時間眺めながらグッドテイスト(店の名前)の味の濃くて懐かしい食事を楽しんだ。
お腹が満たされると、みんな「メリークリスマス」と言って次々に帰っていった。
なんだか一瞬の嵐のような時間だった。
何はともあれ、親族が50人も集まって食事をするのはそうそうないことで、みんな楽しんでいたようだったのでそれで充分だった。

12月30日 5日前~キアンガンへ~

イフガオ・キアンガンへの移動日。
バンに乗るのは私たち家族3人と義母、義妹、義姪の計6人だ。
10時にアパートを出るということで、朝から部屋の掃除を始めた。
部屋が広いため床をホウキで掃くだけでも時間がかかる。

▼3日間お世話になったアパートの部屋の一角

10時ちょうどに全員の支度が終わった頃、義母が何やら電話の相手に語気を強めて話しているのが聞こえてきた。
事情を聞くと、雇ったバンのドライバーが本日の業務を無断で友達に委託したのだということだった。委託された友達は、バギオからあと2,3時間の地点にいるのだという。

「友達に委託してくれたんだ。ドタキャンよりはマシだね(笑)」

そんな冗談を言いながらも、何時間も待っていられないということで、見送りにきた義父が代わりのドライバーを探し始めた。
「ハロー。今からイフガオまで行けるか?」
片道6時間もかかる運転を気安く頼もうとしているのがいかにもこの国らしくておかしかった(笑)

結局、代わりのドライバーは見つからず、遅刻した代わりに依頼料を6000ペソから5000ペソに値下げしてもらうことで合意した。

ドライバーがいないのなら仕方ない。外は快晴だった。
想定外に暇な時間ができたので、私たちは喜んで散歩に出かけた。
そこで初めて夫から、義母が結婚式準備に追われストレスで泣いていたことを聞かされた。

思い返せば、Facebookでイフガオの伝統的な結婚式のポストを見て直感的に「これがやりたい」と私が言ったのが始まりだった。義母は一度も否定せず私の希望を受け入れてくれ、ウェディングプランナーという大役をも自ら(仕方なくではあったが)引き受けてくれた。
私たちが現地に行けないため、打合せはすべてメッセンジャーアプリのビデオ通話のみで行われ、それでは事足りないことはすべて義母が現地で直接手配してくれた。
私たちがようやく現地入りしてからもなお決まっていないことばかりだった。
私と夫は、「大丈夫、何とかなる。やるしかないよ」などと言っていたが、準備の大変さを知らないからそんなことが軽々しく言えたのだ。前例のない結婚式のプランナーとして一人ですべてを背負って取り仕切ってきた義母の苦労や心配は、計り知れない。
無事に結婚式を終え、早く解放してあげたいと心から思った。

午後1時、予定より3時間遅れてイフガオ行きのバンは出発した。
見送りにきたアリピン夫妻は、お腹が空かないようにと人数分のサンドイッチを用意してくれていた。
バンが出発して、義母は自分のサンドイッチを3時間遅れてきたドライバーに手渡す。
そんなフィリピンらしい、優しい光景を眺めながら、車の振動で心地よくなった私は眠りに落ちた。

イフガオの宿に着いたのは午後8時を過ぎた頃だった。

12月31日 4日前~会場視察・調理場設営・衣装試着~

義母の実家は宿から車で5分のところにある。
まず最初にロラ(祖母)と久しぶりのハグをして、それから数十人いる家族ひとりひとりに挨拶をして回った。目上の人には「マノポ」といって相手の手の甲を自分の額につけるのが、敬意を示すやり方だ。マノポをすべき相手が誰なのか私にはわからないので、夫の後について真似して回った。
前に会ったことのある人もいれば初めて会う人もいたが、顔と名前が一致するのはほんの一部だった。

ひととおり挨拶を終えると、結婚式の会場となるバスケットコートを見に行った。この日の夜、ここで村の子どもたち向けの年越しイベントが行われるため、今はその準備が始まったところだ。
装飾に使うのだろう、何メートルもあるカラフルなリボンの束が、床に広げられていた。
4日後、ここで本当に自分たちの結婚式が行われるのか、まったく想像がつかなかった。

▼会場のバスケットコート。夫が幼少期に割礼をした思い出の場所

パパラカイ(祖父)のお墓へ挙式の報告に行くと、義叔父のTitoアンボットが竹を切っていた。
「これから、ロラの家の庭に結婚式の料理を作るための調理場を設営する。その調理場の支柱となる竹を選定してるんだよ」
と、夫が教えてくれた。

Titoアンボットは、片手に斧を持ち、そびえ立つ太くて長い竹を見上げながら蹴ったり叩いたりして、どの竹が支柱に適しているか見定めていた。
私がはじめてキアンガンを訪れたとき、ここの人たちは前夜から盛大な飲み会をしており全員「できあがって」いた。
Titoアンボットに会ったのもその時が初めてで、彼は自力で立ち上がれず家族に引きずられて帰宅していた。
だから、Titoアンボットが上半身裸で竹を切り倒しているのをみて「ただの酔っ払いおじさんじゃなかった!」と見直してしまった。

▼斧で竹を切るTitoアンボット

夕方になると、結婚式で着る衣装の試着をするため、土砂降りの中トライシクルでレンタルショップへ行った。

お店のドアを開けると、
「待ってたわよ~!あなたが日本からきた花嫁?Oh my god!さあ、入って」
と、オーナーのヴァルが歓迎してくれた。

ヴァルは、この地域ではトップクラスの金持ちらしく、きれいな身なりをしていた。
日本のデパートで資生堂の化粧品を買うのが夢だというヴァルの店のショーケースには、これまでに日本からの観光客が置いていったアクセサリーや酒瓶が、大切に並べられている。

キアンガンと日本は歴史的に深い関わりがあるため、ここで初めて会う人には大体戦争や山下奉文の話を振られる。
ヴァルも例外ではなかったが、今までに出逢った人々と同じで「過去に起こった出来事は変えられない。でも私たちは歴史を乗り越えたの。日本のことが大好きよ」と、日本人である私に好意的に接してくれた。そして決まって「山下財宝」の話で盛り上がるのだった。

「どれがいい?コノミ。」
「うーん。とくにこだわりはないんだけど、バギオでこの靴を買ったから、これに合うのを選んでほしい」
私と夫は、ヴァルが選んでくれた衣装とアクセサリーを身に着けて結婚式に挑むことになった。

▼衣装の説明をするヴァル

夜、親戚の家で今年最後の夕食をいただいて、子どもたち向けの年越しイベントを見に行った。
参加している子どもたちは小学生以上だったので、娘は端っこで汗だくになるまでバスケットボールを投げて遊んでいた。

私たちは22時頃には宿に帰り、年越しを待たずに眠りについた。

▼2023年最後のご馳走

1月1日 3日前~休息日~

ニューイヤーズデーのこの日、結婚式の準備はしないから家族でゆっくり過ごしなさいと、事前に義母から言われていた。
その言葉どおり、結婚式に関わるすべての作業は中断され、本当に誰一人働いていなかった。

私たち家族も、道行く人にハッピーニューイヤー!と声をかけながら朝から村の周りをぐるっと一周したり、親戚と昼ご飯を食べたり、コーヒータイムにビナクレの作り方を教わったりして過ごした。

休みは休む。その代わり、働くときは一斉に働く。このオンオフの切り替えは見習いたいところだ。

1月2日 2日前~ダンス練習・コップ制作・ウェディングケーキ~

義母は早朝からロラの家の庭で食材の下準備をしていた。バギオのマーケットで買ってきた人参やピーマンなどの野菜を袋から出し、腐って使えないものとそうでないものを選別しているのだ。
イロカノ語で夫と話している義母が苛立っているのがわかる。
もう9時前になるのに、誰一人起きてこないのだそうだ。たしかに、前夜はみんな泥酔していた。
自分たちの結婚式が、まさか村を挙げての大事になるとは予想だにしていなかったので、安易に挙式日を1月4日に設定したことを改めて申し訳なく思った。

「何か手伝えることない?」
「残念ながら、新郎新婦は手伝わないことになってるんだよ。動画を撮りなよ」
私は、何もできずにひたすら動画を撮って記録に残した。

会場はどうなっているのだろうと見に行くと、「コノミ!」とLolaピンタスに呼び止められた。

「ここに来なさい。あなた明日ダンスするのよ」
「ちょっとまって。ダンスはやらないって聞いていたけど…」
「やるの。まずは私たちの踊りを見てなさい」

話が違う。あれだけ何度も夫に確認して「たぶんない」と言われていたのに。
大がつくほどのダンス嫌いな私の、生まれてはじめてのイフガオダンスレッスンが突然始まった。
インストラクターと呼ばれていた人たちは、全員親戚と近所の人だった。

「コノミ、そうじゃない。」
「動きが硬すぎるのよ。もっと全身の力を抜いて」
「足のステップはこう」

文字通り手取り足取り指導してくれるのだが、こちらとしては乾いた犬のフンを素足で踏みながらなので、そちらに気を取られあまり集中できなかった。

ダンスはとても重要なパートなので(当日知ったことだが、プログラムの大部分を占める)、インストラクター陣の指導にも熱が入った。
インストラクター以外の人もわらわらと集まってきて、大勢でのダンスレッスンが始まった。
だが、結婚式のダンスは滅多に踊る機会がないので誰も正解がわからず、ああでもないこうでもないと言い合いをしている。

様子を見に来たロラにも「手の角度はこう。」と直され、夫だけは褒めてくれるかと思いきや「身体が硬すぎるよ。」と注意され、あまりの下手さに半泣きだった。

私のダンスの練習は、この一時間が最初で最後だった。

▼インストラクターの話す言語がわからないのでLolaピンタスが英訳してくれた

みんなで賄いのピニクピカンを食べたあと、調理場設営チームの様子を見に行った。
昨日まで何もなかったロラの家の庭に、立派な調理場の土台ができている。
設営チームは全員、村の近所の人だ。

▼ここでゲスト用の料理を作る

家の前の道路では、これもまた近所の人たちが6~7人で、竹でできた容器を作っていた。
この容器は、当日ゲストが酒を飲むのに使われる。
Titoアンボットが切ってきた竹を鉈や電動のこぎりでいい長さに切り、上にくる方を斜めに切り落とす。
それから切り口がなめらかになるようやすりなどで整える。
300個以上を、すべて手作業で作るのだった。
どれもこれも興味深い作業ばかりで、「新郎新婦は挙式準備を手伝ってはいけない」という風習がもどかしかった。

こんどは、家から徒歩2分のサリサリストアへ。
そこの店員がウェディングケーキも作れる職人らしく、この日の朝に注文したのだそうだ。

「2日前なんて!いきなり言われてびっくりしたわよ!」

誰がオーダーしてくれたのか、ケーキのデザインなど一切私たちには知らされていなかったので楽しみだった。

▼2日前に突然特注ケーキのオーダーが入りびっくりするアテ

夕方、一人目の日本人ゲストが一足早くキアンガンに到着した。
結婚式に参列してくれることになった3人の日本人ゲストはみんな、バギオで出逢った、夫婦共通の大切な友人だ。

その後、大量に必要となるお米を買いに再びラガウェまで行ったが、途中で土砂降りになってしまった。
買ったお米はトラックの荷台に積んで帰る予定だったが、これでは雨に濡れて米がダメになってしまう。

「米が濡れるから今日買うのは諦めた」と夫。
「明日も雨ならどうするの?」
「まあなんとかなるよ」

▼米の価格交渉をする義母

その日の夜、私の両親が日本から到着した。
両親のピックアップのためドライバー付きのバンを雇っていたが、ドライバーは英語ができない。そのため、英語が堪能なTitaジェンとLolaピンタスが同乗してマニラまで迎えに行ってくれた。そのおかげで二人が安全に来ることができて、本当に感謝している。

夜11時過ぎに両親が宿に着いた頃には、私は待ちきれずに娘と眠ってしまっていた。

1月3日 前日~ステージ設営・皿制作・動物搬入・ゲスト到着~

翌朝はっと目を覚ました私は、急いで両親が寝ている部屋へ向かった。
霧に包まれた2階のテラスでコーヒーを飲みながら、二人の道中の話を聞いた。
二人雇ったドライバーのうち一人が当日にドタキャンし、キアンガン~マニラ空港の往復700キロを一人で運転してきたのだそうだ。
さすがのドライバーも細心の注意を払って高速道路を制限速度ぴったりで走っていたそうで、同乗した義叔母たちは遅いと文句を言っていたようだが、そのおかげで両親は終始安全運転でよかったと言っていた。

親戚への挨拶を済ませると、会場となるバスケットコートを見に行った。
別の設営チームがステージの土台となる木材を運んできているところだった。

▼ステージの土台を組み立てている

また端のほうでは、ゲスト用の「皿」の準備が始まっていた。
昨日まで丸太のように積み上げられていたバナナの茎を、義母が一枚一枚、丁寧に剥がしている。

目に入るものすべてが新鮮で、もう楽しさしかない。
何より自分のために村の人たちがこんなに準備してくれていることが、ただただ信じられなかった。

再び家に戻ると、今度は牛が到着していた。
できることなら一部始終を見届けたかったが、「その瞬間」を見ることはできず、すでに血を流して横たわっているところだった。

▼牛の毛をバーナーで焦がしそぎ落とす

5~6人ほどのクヤたちが慣れた手つきで足を縛り、まだ新鮮な血を大量の水で流し、バーナーで毛をあぶっていた。その様子を、垣根の向こうから従姉妹が身を乗り出して動画を撮っている。
いわゆる獣臭というのはまったくといっていいほどない。

命の最期というのは何度見ても慣れるものではないが、私たちの結婚式のために捧げられた命に最大限の感謝をしながら、私はゲストを迎えるため宿に戻った。

その後、豚が7頭トラックで搬入された。
立ち会うことができない私のために、義母が動画を撮って送ってくれた。

▼それぞれから献上された豚

夫は、「さすがに準備が間に合わないから手伝ってくる」と言って出て行った。
男手が足りないのだそうだ。
私は宿泊するゲストの対応を頼まれた。

長距離バスで降り損ね、キアンガンよりずっと先のバナウェまで行ってしまうトラブルもあったそうだが、なんとか日本人ゲストも含めみんなが無事に到着した。

じつは、前日になってフィリピン人ゲスト合計7人がドタキャン。緊急で他のことにお金が必要になったとか、体調が悪くなったとか、理由はさまざまだった。イフガオまで来てもらうのは、金銭的にも体力的にも、大変なことなのだ。検討してくれただけ嬉しかった。

さて宿はまるごと貸切っていたのでどうしたものかと思ったのも束の間、4人で来るはずだった義父一行が10人乗りのバンで到着し、中からは来る予定のなかった妊娠7ヶ月の義妹が「サプラ~イズ!」と言ってでてきたときは、「これぞフィリピン!」と久々に感動してしまった。

結果的に7人ドタキャンがでたが、6人のサプライズ登場でほぼノーダメージで済んだのだった。

カメラマンにも宿に泊まってもらった。
こちらも1人かと思いきや4人でサプライズ登場。これはまさかだった。

前夜祭と聞いていたディナーは一般的なデリバリーフードで、量が足りるか心配だったが、みんなが少しずつ遠慮してくれたのか十分すぎるほどだった。
電灯に見たこともない量の羽アリが集まってきて、それらを駆除するところから始まったのは想定外。

ゲストが持ち寄った酒で程よく酔っぱらった頃、夫がヘトヘトになって帰ってきた。

「みんな今日は来てくれてありがとう。私たち、明日に備えてもう寝ます。」
私たちは、ゲストたちを残して部屋に戻った。

▼前日の深夜、娘が寝ている横でスピーチの練習に励む夫