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第一部:挙式
予定どおり遅れて始まった私たちの結婚式は、第一部と第二部で構成された。日本の結婚式でいうところの挙式と披露宴だ。
司会進行は叔母のティタジェンが引き受けてくれた。何人かが彼女の肩を叩きながら、おめでとう、がんばってねと声をかける。
言語は主にフィリピンの母語であるタガログ語、キアンガンの常用語であるイフガオ語、そして英語が使われた。
重要なパートこそイフガオ語だったため半分以上はチンプンカンプンではあったが、スピーチではみんな私や両親にも分かるよう英語で話してくれて、その心遣いが嬉しかった。
来賓祝辞
最初に、理事のロロボイや、イフガオ市長から祝福の言葉をいただいた。ロロボイはダンディなイケオジで、私の”推し”だ。自分の結婚式で「かっこいいわ~」と惚れ惚れする私に、夫はノーコメントだった。
両家ファミリー・ツリー紹介
「Family tree(家系図)は発表できるように準備しておいてね」
数か月前から義母に言われていたが、とくにイメージがわかないまま本番を迎えることとなった。
新郎側、新婦側がそれぞれ両親、祖父母の名前と出身地を紹介するという内容らしい。それくらいなら準備するほどのことでもないと、大して構えてはいなかった。
新郎側は、まずロラが前に出てきた。軽く挨拶をしたのち、新郎・母親サイドのファミリー・ツリーを順番に読み上げる。
5分ほどで終わったと思うと、次の人がでてきた。次の人が終わったと思ったら、また人が替わって、延々と続いている。聞いていると、両親、祖父母、曾祖父母、その兄弟まで紹介しているらしいのだが、、それにしても長い。
結局、父方・母方の紹介がすべておわるのに、20分以上かかった。
新婦側に関しては、私でなく父がそのパートを担当するということは、当日の朝に知らされた。
挙式直前、急遽父に依頼。
「あの~…突然で大変申し訳ないのですが」と切り出すと、父は「名前と住んでいるところを言えばいいの?わかった」とすんなり引き受けてくれた。
両親、姉妹、祖父母の名前と居住地を英語で紹介してもらった。父が話し始めると、「日本人の新婦の父」が英語を喋ったことに驚いたのか、会場が若干どよめき、その後拍手が起こった。
こちらは2、3分で終了。フィリピン人同士の結婚ならこのパートだけで30~1時間かかるのだ。
ムンバキ祝辞
前の記事でも紹介した、この村最後のムンバキ(シャーマン)から祝辞をいただいた。
伝統的な結婚式は、数十年前を最後に執り行われることはなかった。その最後の結婚式の新郎であった彼が、この伝統を後世に引き継いでいくことの意義を語っていた。
ライスワイン
ムンバキの話が終わると、その場にいた全員にライスワインがふるまわれた。前日まで何人もの村人たちが協力してつくってくれた竹の容器が配布され、ワインが注がれる。ムンバキのかけ声で乾杯をし、みんなでお酒を一口ずつ飲む。酸味があって飲みやすい。しばらくお酒を飲んでいなかった私は、一杯で気持ちよくなってしまった。
スポンサー挨拶
理事、市長、村長、バランガイキャプテン、地主など、社会的地位のある人やお金持ちの人々は「スポンサー」と呼ばれた。
私たちの結婚式は、自分たちで出すお金のほかスポンサーの寄付金、親族や村の人たちの協力(報酬を支払わない代わりに肉をふるまう)、参列したゲストからのご祝儀で成り立っていた。
スポンサーからは牛も一頭献上してもらっているし、相当援助してもらったことだろう。その金額が私たちに知らされることはなかった。
祝福の歌
親族と近所の人らのグループが、伝統衣装を着て、アカペラでイフガオ語の民謡を披露してくれた。メッセージは何なのかと夫に聞くと、「古いイフガオ語だからわからない。今は使われていない言葉だ」という。農業についての歌らしい。
今でもこの歌をきくと、式場から見下ろしたイフガオの山々とそこにかかる虹が、情景として頭にくっきりと浮かんでくる。
アベさん挨拶
アベさんは、「イフガオに長年住んでいる日本人だから」という理由で、急遽私たちの結婚式に参列してくれたおじさんだ。
イフガオに暮らし始めたキッカケや、彼自身のことについて話してくれた。いきなり見ず知らずの人の結婚式に呼ばれたと思ったら、スピーチまでさせられる。人生とはわからないものだ。
ダンス(新郎新婦)
いよいよ、私が犬のフンを素足で踏みながら練習したダンスの見せ場がやってきた。
練習では、新郎新婦含め合計6人でフォーメーションを組み、それぞれの立ち位置を何度も確認した。
「本番もこのとおりやればいいから。何も心配することないのよ」
ロラピンタスの言葉を鵜呑みにして安心したのが甘かった。
「次は、新郎新婦によるダンスです」
と司会のティタジェンがいったとき、私たちはまだ新郎新婦席にいた。
打合せではそこからステージ袖に移り、チームで入場することになっていた。しかし、ティタジェンがこちらに視線を移し、身振り手振りで「Go!Go!」と指示を出してきた。
え?今?わたしが?とジェスチャーで返す。「聞いていたのと違う」なんてことはこの国ではいたって普通のことなのに、数年ぶりにフィリピンに戻ってきた私は感覚が鈍っていたのだろう、慌てふためいてしまった。結婚式だからといって例外なんていうことはないのだ。
▼「話が違うぞ」と内心思っている新婦
▼”Welcome to the Philippines!”で返す新郎
ぶっつけ本番の新郎新婦パートをなんとかやりきって、ようやく練習どおりの6人のパートに入ると、一気に緊張もほぐれた。
ここで、新婦が「生きた鶏」を持って踊るパートがあると聞いてワクワクしていたのだが、ムンバキの助言によってなしになった。
(楽しみにしてたのに!)
本来は、新婦が鶏を持ってダンスしたあと、それを生贄としてその場で殺すのだが、私たちの場合は結婚して既に時間が経っているので、その部分は省略したらしい。
幸運な鶏は一命をとりとめた。
祈祷
新婦に渡されるはずの鶏は、代わりにムンバキに手渡された。ムンバキは右手に鶏を持ち、両手を大きく振りかざしながら、現地の言葉で熱弁をふるう。末永い幸せを祈るものだそうだ。
ダンス(全員)
現地の人曰く、結婚式においてダンスは最も重要なパートだそうだ。
最初に新郎新婦が、次にムンバキが、その後は両家親族やスポンサー、ゲストたちが入れ代わり立ち代わり前に出て、伝統のダンスを踊る。
イフガオの中でも、音楽も振付も、地域ごとに違う。私たちが踊ったのはキアンガンのダンスだ。とくに今回は結婚式用の振付であり、結婚式のときにしか踊る機会がない。だから、練習のときから講師陣ですら振付が一致せず揉める、ということが起こるのだ。
ゲストはコルディリエラ山岳地帯の中でもさらに「地域ごと」にグループ分けされた。イフガオ以外の地域からきたゲストたちは、だれもイフガオのダンスを知らないので、見よう見まねで楽しそうに踊っていた。そういう意味では、フィリピン人も日本人も一緒だった。
▼講師陣(近所の人)
▼演奏部隊(近所の人)
▼アンクルボブの歌に合わせてフォークダンスを踊る私たちと娘
新郎スピーチ
人前で喋ることが得意な夫。練習はしないのかと聞くと、話す内容は頭に入っているから問題ないと言っていた。私との出逢いや馴れ初め、この日に至るまでの出来事を、台本もなしに意気揚々と語るのを、さすがだなーと思ってみていた。
夫が一通り話し終えたあと、「ここまでがぼくたちのストーリーです。コノミから何かコメントある?」といきなり振られたので、とりあえずマイクを受け取り「私たちがはじめて出逢った日は12月17日と説明がありましたが、正しくは16日です」とだけ訂正し、ただでさえ和やかな場をさらに和ませておいた。
両親への手紙
イフガオの伝統的な結婚式に両親への手紙というプログラムは存在しないのだが、自分たちの言葉で伝える貴重な機会だからと、都合よく日本の形式を取り入れた。
日本の生活でお世話になっている私の父と母に日本語で感謝を伝えたい、という夫の強い願いで、夫は日本語で私の両親に、私は英語で夫の両親に、それぞれ手紙を読むことになった。
私もイロカノ語でスピーチをしたい!とお願いし台本までは用意したものの、いざ読み上げてみると発音が難しすぎて伝わらない。そもそも義父と義母の話すイロカノ語も種類が違うので、私含め全員が理解できる英語で、ということになった。
新郎サプライズ
「コノミ、ここに座って。」
そういわれていつのまにか用意された椅子に座ると、前にあったスクリーンに画面が映し出された。
高校の部活メンバーからのビデオレターだ。みんな住んでいる地域もバラバラなのに、フィリピンで式を挙げる私にメッセージを寄せてくれた(しかも英語字幕付き)。
高校時代、週末も含め一年のほとんどを一緒に過ごした友人らからのメッセージは、込み上げるものがあったが、じつはこのようなサプライズがあることは知っていた。
一週間前、バギオに滞在していた夜。
寝室で娘を寝かしつけていると、リビングから夫と義母の話し声が聞こえてきた。
「コノミにサプライズを用意したよ。コノミの友達に連絡を取って、メッセージ動画をつくってくれないかと頼んだんだ。それを結婚式で流すんだ」
薄い壁を伝ってくる声音から、夫の嬉々とした表情が思い浮かぶ。頼むからこれ以上話さないでくれと思いながらそっと手の平で耳を覆った。
サプライズ下手な夫は、ここでもサプライズに失敗したのだ。
Watwat(無料飯)
一部(挙式)がおわると、昼の12時半を回っていた。
夫に呼ばれ外をみて、思わず「すごい!」と声が出た。
まったく気が付かなかったが、会場の周りには「無料飯」を求めて多くの村人が列をなしていた。
イフガオでは、儀式のときに調理した牛や豚などを村人に配布する週間がある。この、いわば無料飯は「Watwat(ワトワト)と呼ばれ、これこそが、私がFacebookで写真をみて直感的に「イフガオで伝統的な結婚式がしたい!」と軽率に言い放ったキッカケとなったものだ(あの一枚の写真がなければ、この結婚式は実現していないし、これだけたくさんの人々に大変な思いをさせることもなかっただろう)。
メニューは、捌いた牛や豚の脳みそから内臓、睾丸、血液までを無駄なく使ったご馳走だ。
前日にみんなが大量に剥いてくれたバナナの茎が、ここで料理をよそうプレートとなって活躍する。
大人も子どもも、自分の番がくるのを静かに待つ。中には日傘を差している人もいる。家族のために二皿持ち帰る人もいる。
まったく知らない人たちが、私たちの結婚式に、結婚を祝うでもなく、ただ「食べ物を食べに」きてくれる。その人たちとは今後知り合うこともないだろう。
私たちにとって人生で最も思い入れのあるイベントが、彼らにとっては「誰かの結婚式でWatwat配ってたから今日の食費が浮いた」ただそれだけの出来事で、それ以上でもそれ以下でもない。その不思議な感覚に、なんともいえない心地よさをおぼえた。自分でもうまく言語化できないが…案外、人間関係に価値や意味などなく、人生はその場限りの関係の連続でいいんだなどと、そんなことを思った。
▼結婚式が行われている裏でWatwatの仕込みをしてくれていた近所の人たち
“No more stress.”
一部のプログラムがすべて終わると、私たちのところへゲストが写真を撮りにきてくれた。日本の結婚式でも見たことのある風景だ。ただ、親族ですら人数が多すぎて名前と顔が一致しないだけではなく、たまに夫も私も面識のない人が混じっていたことは、日本とは違うところだった。
写真撮影が終わると、お義母さんが来てくれた。
そのお義母さんを夫がしっかりとハグして、
“No more stress, mama.”(もう、ストレスに感じなくていいよ)
と言うと、とても重たい何かからようやく解放されたように、お義母さんの目からぽろぽろと涙がこぼれた。
「私の夢を叶えてくれて本当にありがとうございます、お義母さん。」
そういって、私たちも隣の披露宴会場へと移動した。
(つづく)