1月4日 結婚式当日
山の天気は変わりやすい。
12月~1月のキアンガンは、日中は晴れ間が広がり夕方頃から夜通し雨が降る、というのがお決まりだ。私たちの滞在中も例外ではなく、毎日夕方になるとバケツをひっくり返したような雨が降っていた。
明け方、目を覚ますと夜からの雨が降り続いていて、お天道様は味方してくれなかったかと思ったのも束の間、朝食を終えホテルから車で5分の式場につく頃には雨はすっかりあがり、雲ひとつない晴天に恵まれた。
車が動かない
結婚式の開始時間について知らされていないと気付いたのは、前日の夜、日本からはるばる来てくれたばかりの父親に、明日は何時に式場に行けばいいのかと尋ねられたときだった。
―そういえば、聞いてないな。
式場の準備で忙しい義母に電話で連絡すると、午前9時半開宴なので、新郎新婦は7時半までに式場に来るようにとのことだった。
当日、朝7時頃に支度を終え、ロロボイに借りた車で予定通り式場に向かおうとすると、昨晩まで普通に使っていた車が動かない。元タクシードライバーの夫があらゆる手を使っても、大きな車からは情けない馬のいななきのような「ヒヒィ~ン」という音がするだけで、エンジンがかからないのだ。
イフガオの静かな朝に響き渡る馬のいななきを聞いて、現役ドライバーの義父も、何事かと部屋から出てきた。二人の大人が車のボンネットを開けてみたり、動物が挟まっていないかと車の下をのぞきこんだり、10分ほどあれこれ試したのち、何事もなかったかのようにエンジンがかかった。
「さっきの、なんだったの?」
「ロックシステムの誤作動だよ」
「ふうん。よくわからないけど、『車が動かず新郎新婦遅刻』というタイトルの記事を書かずに済んだわ」
「それは君にとっては残念だったね」
会場に着くと、昨日まで何もなかったバスケットコートには、写真で見たとおりの華やかなステージが設置され、エメラルドグリーンのプラスチック製の椅子が100以上並べられていた。その手前で、ロラが箒で地面を掃いている。2日前のダンスの練習で、裸足で何度も踏まざるを得なかった乾いた犬のフンは、綺麗になくなっていた。
掃除や機材の設置をひととおり終えると、私は会場全体を見渡した。
いよいよ、ここで結婚式を挙げるんだ。そう実感して、胸の高鳴りを感じた。
新郎新婦衣装とドレスコード
「コノミ、こっちに来て。着替えるわよ」
義母に連れられて向かったのは、ロラの家の二階の部屋だ。
私は、持ってきたものをロラのベッドの上に並べた。レンタルショップで借りた民族衣装に、バギオのSMモールで夫に買ってもらったシルバーのサンダル、それに市場で買ったイヤリング。今思えば、これが、私が用意した衣装とアクセサリーのすべてだった。自分の結婚式というよりは、大規模なイベントを主催しているような感覚だったため、他のことに気を取られすぎて自分の衣装のことにまで気が回らなかったのだ。
いつもと変わらないファンデーションを塗り、眉毛を整える。使わなくなった化粧品は前回の断捨離で大量に処分してしまった。ヘアメイクをしてもらえる人もいないだろうと、長い髪は切ってきた。素顔が一番と言ってくれる夫で幸せだな~と思いながら、乾きかけたマスカラを気持ち程度塗った。
女性は、ランマ(LAMMAH)と呼ばれる白のブラウスを羽織り、トルゲ(TOLGE)またはアンプヨ(AMPUYO)と呼ばれるスカートを腰に巻く。アッタケ(ATTAKE)はビーズでできた髪飾りで、ネックレスとして身につけることもできる。
義母が、自分の着付けと並行して、私の着付けを手伝ってくれた。腰に巻き付ける布の下にペチコートを履いている。
「それ持ってくればよかった!巻きスカートの下、下着になっちゃう」
日本語でつぶやくので誰の耳にも入らない。「Ha?」と返された。
しばらくすると着付けを終えたロラもやってきた。しかし、二人とも正しい着付けのやり方は分からないと言う。現地の言葉でああでもないこうでもないと言いながら私の腰に布を巻きつけてくれるのだが、もはやこれが正しいのかどうかは誰もわからなかった。私はされるがままに黙って巻かれていた。
私は、ヴァルの到着を待っていた。衣装のレンタルショップのオーナーだ。私たちが店に行った日、「当日は私が着付けとヘアセットを手伝いに行くから安心して!」たしかにそう言ったのだ。
「お義母さん、ヴァルはいつくるんですか?」
「ヴァル?どうして?」
「当日の朝ここにきて私の着付けとヘアセットをしてくれるって」
「ええ?ヴァルがそう言ったの?彼女は仕事で忙しいから今日は来ないはずよ」
これは想定外だった。私はヴァルの言葉を信じて、プロによる着付けをしてもらうつもりでいたのに!
なんとか着付けを終え、ロラの姿鏡の前で「まあ、そういうこともあるか」とつぶやきながら、義母に借りたアッタケを自分で頭につけた。
夫の着付けは、従兄弟が担当した。
ワノ(WANOH)と呼ばれる男性用の巻き布を、ふんどしのように直接肌に巻いていく。装飾品のブトゥン(BUTUNG)は、モマ(噛みタバコ)を入れるための袋だ。イフガオの男性は高確率でモマを嗜好品としている。手際よく夫の腰に布を巻き付ける彼の口も、赤く染まっていた。頭にはポンゴ(PONGOT)を、腰にはイフガオの刀をつける。夫がアパートで肉を切るときに使っていたやつよりも立派な刀だ。
▼シンプルだが迫力があり、夫のタトゥーがよく合う。
会場のバスケットコートに戻ると、ゲストが続々と到着していた。前夜から同じ宿に泊まっていた三人の日本人ゲスト、サプライズで登場した義父家族、バギオから来てくれた夫の親友たち、アリピン夫妻とその息子、それにうちの両親、数えきれない親族と近所の人たち…。
「新郎新婦の登場だ!」と、みんなが次々に挨拶に来てくれた。
まだ式も始まっていないのに。
音楽とともに扉が開き、まずは新郎がゆっくりとした足取りで入場、続いて新婦が親族にエスコートされながら新郎の元に移動―といった、「新郎新婦入場」というプログラムは、イフガオの結婚式には存在しなかった。
山奥の小さな村で、こんなに沢山の人たちが、私たちのために足を運んでくれ、祝福してくれる。それだけで胸がいっぱいで、言葉もでない。私は、親族友人らと握手、言葉を交わしながら、必死で涙をこらえ、この幸せな光景を目にやきつけた。
ほとんどの人がイフガオの伝統的な結婚式に参列した経験がなかったので、みんな事前にドレスコードについて質問してきた。夫の答えは「Anything is fine but something cultural is better(何でもいいけど、文化的な衣装なら尚良し)」。それぞれが、思い思いの服装で参列していた。
はるばる日本からやってきた新婦の両親の服装というのも、一つの注目の的となっていた。父親は、フォーマルなクリーム色の背広を、母親は、薄いグリーンの着物を着てくれた。じつは、母親の着物については私がリクエストしたのだが、最初の反応は予想に反して良いものではなかった。現代には珍しく、日常生活の中で着物を着用するほど着物が趣味の母。お気に入りの着物を小さなスーツケースに折り畳んで入れること、どんなところかも分からないイフガオという地で着物が汚れてしまうこと、色々考えると気が進まなかったのだろう。軽々しく頼めることではないということは分かっていたが、それでもせっかくの結婚式だから着物を着てほしいとお願いした。
「コノミのために着てやってよ」という父と、夜な夜な揉めていたのも知っている。
だから、母が着物を着てきてくれたことは嬉しいことだった。
「じつは、大事な帯締めを忘れちゃったの。」という母に、「大丈夫、誰も分からないよ」と声をかけた。
It’s not your attire.
ゲストたちと久しぶりの再会を喜び和気あいあいと過ごしていると、「コノミ!ちょっと来て」と、ステージ袖のほうから呼ばれた。ティタジェン(義母の姉)だった。
「この衣装、誰が用意したの?」
「お店でレンタルしました」
「これを着るように言われた?」
「はい」
ティタジェンは、ロラピンタスと現地の言葉で話したあと、
「It’s not your attie.(あなたの衣装はこれじゃないわ)着替えて」
そう言うと、私の腰に巻かれた布を手早く取り始めた。
「あのー、これじゃないって、どういうことですか?」
「布の模様はね、階級によって違うのよ。今あなたがつけているのは、もっと低い階級の人が着けるもの。あなたは日本人だから、これを着るべきじゃないって、ムンバキがそう言ったの」
「ムンバキが、そういったんですか」
伝統的なイフガオ族のムンバキ(MUMBAKI)は、様々な儀式を執り行うことのできる専門家―いわゆる『シャーマン』で、結婚式、感謝祭、葬儀、その他の儀式において祈りを捧げる。
もともと彼らは、呪術によって病気を治療するヒーラーの役目を担っていて、昨年、親戚の子どもが原因不明の病を患っていたときにも、ムンバキによる祈りの儀式があったと聞いた。
彼らの伝統は、口承伝承により世代から世代へと受け継がれた。血統によらず、修行を重ねた者であればムンバキになることができるが、近年では古くからの伝統とともにムンバキの数は徐々に減少し、この村では彼が最後のムンバキだそうだ。
部屋の奥に座っているあの男性が、ムンバキか。彼が、私は日本人なのだから、より高い階級の人が身に着ける布を巻くようにと言った。
所得証明を提出したわけでもないし、提出したところで私には財力の欠片もない。ただ「日本人である」という事実だけで、より上の階級に属しているとされる。そして、それはムンバキの一言で決定し、人々はそれに従って動く。私は、この10分足らずの出来事の中に、イフガオの文化を垣間見た気がした。
ところで、さっきまでつけていた布と今自分の腰に巻かれている布で、何がどう変わったのか、私にはその違いがほとんど分からなかった。今になって、二種類の布を並べて写真を撮らなかったことを後悔しているが、当日はほとんど写真を撮る暇もなかった。
いつのまにか開宴していた
まさかの全身総着替えが終わり再び会場へ戻ると、今度はカメラマンが駆け足で寄ってきた。
「ああ新婦がこんなところにいた!ちょっとだけ、時間いいかな?式が始まる前に撮影しよう。衣装が崩れないうちに」
9時半に式が始まると聞いていたが、時計の針は10時を指していた。まだ式が始まる気配はない。私たちは娘を連れて、カメラマンと一緒に会場から数十メートル離れた場所へ移動した。
最初は、夫の親友のサムに撮影を依頼する予定だった。サムはバギオでカメラマンや動画編集などの仕事をしている。しかし、サムのカメラが壊れているという理由で、代わりに知り合いのカメラマンを紹介してもらった。
彼らが提案してきたプランは、前撮り・挙式・披露宴での写真・動画撮影に、40ページのアルバム、フレーム付き写真、ハイライトビデオ、木製USBのプレゼントがついて4万5千ペソ(12万円弱)。
日本に比べれば破格だが、撮影にそこまでお金をかけるつもりはなかったので、写真とビデオの生データのみで1万6000ペソ(4万円強)という内容で依頼した。前日の打合せで、+3,000ペソで編集済みの動画もつけてもらえるということで、せっかくなのでそれも追加した。
家族三人でのカットを終え、夫のソロカットがいい感じに進んだ頃、式場から、司会のティタジェンがマイクで話す声が聞こえた。
「Oh my god. 式が始まってる。一旦、ここで終わりだね。マダムのソロカットはまたあとで」
マダムのソロカットはそれっきり忘れ去られ、あとから声がかかることもなかった。
式場に戻ると、さっきまで誰も座っていなかった椅子に100名近くのゲストが整列して着席し、新郎新婦不在のまま式が始まっていた。
司会進行を務める叔母のティタ・ジェンが、何かしゃべっている。
私たちはゲストの脇を縫うように進み、授業に遅れてきた学生のように周囲からの視線を浴びながら、腰を低くしてステージ席にあがった。これが、新郎新婦の入場シーンだった。
用意されたステージの椅子に座ると、改めていよいよ開宴したことを実感し、ワクワクが最高値に達した。ステージの装飾は、事前に見せられた二枚の写真から選んだものだった。シンプルか、ゴージャスか。優柔不断の私にとって、選択しが二つしかないことは有難かった。迷うことなくシンプルを選んだ。
近くでみると、オーナメントの一部はひび割れていたり、クモの巣が張っていたりする。この詰めの甘さというかゆるさが、この国の大きな魅力でもある。顔の周りを大量の蚊や蛾が飛び回る。ステージの下には野良犬も子どもも自由に走り回っていて、それを見て大人が楽しそうに微笑んでいる。なんて幸せな空間なんだろう。私の緊張は一気にほぐれた。式が始まって間もなく、私がステージを降り最前列に座る両親の元へ向かうと、一気に視線が集まるのを感じた。私が、両親の足元に置いてあった手提げ袋から虫除けスプレーをとりだし全身にふりかけまた元の席に戻ると、「なんだ。」と笑いが起きた。
その2へつづく