
第二部:披露宴
第二部は、挙式が行われたバスケットコートの隣にある建物を貸し切って行われた。
夫が小学校1年生の頃だけ通っていた「託児所」だ。
私たちが建物の中に入ると、ゲストがグループごとに着席し、窓際にはビュッフェ形式で肉料理が目を引いた。それは、村の人が数日がかりで準備してくれたご馳走だ。
新郎新婦が到着したからといって、特別に注目されることはなかった。むしろ会場の雰囲気は穏やかで、ゲストたちはそれぞれ親族・友人との再会を喜び、酒を片手に会話に花を咲かせていた。
しばらくすると、用意されたバナナの皮製のプレートを手に、ゲストたちは次々と席を立った。料理の前にはすぐに長い列ができた。
私はというと、誰に案内されるでもなく、最前列にセットされた新郎新婦席に座った。
新郎新婦に限っては、(個人的には非常に残念なことに)バナナの皮製のプレートではなくきれいに整えられた白い皿とシルバーのカトラリーが用意されていた。少しばかり浮いているような気もしたが、それがまたこの場所にぴったりな気もした。
傾いたケーキ
新郎新婦席の左手には、特注ケーキが用意されている。
なんと、家のすぐ近くにあるサリサリストアのアテがケーキ職人だということで、義母が2日前にオーダーしてくれたものだ。(そんな偶然あるのか?)

テーマは「日比文化の融合」。
白いクリームに包まれた三段のケーキには、当日私たちが身に着けたイフガオの伝統的な織物が垂れ下がっていた。上段には金色の扇子が飾られ、下段には茶器が置かれ、そして日本文化の象徴ともいうべき、箸が刺さっていた(正直、これが日本のマナー的にどうかという問題は大目に見てほしい)。
よくみると、箸には「長寿箸 お母さん」と書かれている。さすがフィリピンだ。まさに予想を裏切らない、斜め上をいくアイデアだ。心から感謝した。
きっと、その辺にいた誰かが、「日本といえばこれだろう」と、たまたま持っていた長寿箸を意味も分からず提供してくれたのだろう。そんな光景が目に浮かぶ。
とはいえ、会場はほぼフィリピン人ばかり。結婚式の特注ケーキに長寿箸が刺さっているというこの面白さを、共感できる人はほとんどいなかった。それもまたよしとしよう。
異なる文化の融合を象徴した、世界に一つだけのオリジナルケーキ。まさか2日前に急に注文を受けて、こんなに素晴らしいケーキを作ってくれるなんて!驚きと感動で胸がいっぱいだった。
だが、感動している暇もなく、ケーキが暑さに耐えきれず、徐々に傾き始めた。
司会がいない
私たちが会場入りしてから20分は経過している。しかし、何かが始まる様子はまったくない。
一体、この第二部は誰が司会進行するのだろう?
見かねた夫が義母に尋ねると、義母の返事はあっさりしたものだった。
「しらないわよ。私は結婚式が終わってクタクタだわ」
その言葉を受けて、私はすぐに理解した。どうやら、この披露宴にはプログラムも司会もないらしい。
なるほど、これが「第二部」なのか。
―となると、この傾いたケーキはどうしよう?
不安に思ったのは私だけではなかった。
日雇いカメラマンだ。
「ケーキは倒れそうだし俺たちの契約も2時までだ。急ごう。」
こうして、日雇いカメラマンが仕切るシュールな披露宴(?)が始まることになった。
重要なのは、ゲストたちが食事と酒に夢中で誰一人として新郎新婦の存在を気にしていない事実だ。
そしてカメラマンもまた、ゲストのことなど微塵も興味がない。彼が気にしているのは、契約時間内に撮影を終わらせることだけだ。
カメラマンに見守られ
「じゃあ早速ケーキカットから始めようか。ほらナイフを持って」
「いいね!こっち向いて!もうワンショット!」
「オーケー。次はファーストバイトだ」
「もっといこう!一匙の大きさは愛の大きさだよ!」
「乾杯のショットもほしいな」
「互いに腕をクロスしてみて」
「いいね!向き合ってキスしよう!」
「キース!キース!いいね〜!もう少しちょうだい!オ〜ケ〜!」
一生に一度のケーキ入刀、ファーストバイト、乾杯、そして夫ダニエルとのキスは、ゲスト誰一人として見守ることなく、異常に距離の近いカメラマンにだけ見守られながら、遂行されていった。
我ながら、なかなかシュールな体験だ。



カメラマンが撮影に満足した後も、ケーキは部屋の片隅で傾き続けているので、通常、結婚式ではあまりないことのような気もするが、新婦自ら義母に申し出ることにした。
「あのう…ケーキ食べてもいいですか?」
案の定、疲れ切った義母は「好きにして」と言って、私に許可をくれた。
私は、周りにいた人から声をかけて、ケーキを取り分け始めた。
正直にいうと、今までフィリピンで食べたケーキは、バギオ在住日本人に定評のある“ビスコス“の苺ショート以外は甘すぎて口に合わなかったのだが、ここのケーキは違った。
クリームは程よい甘さで、生地もふわふわしすぎず私好みにしっとりとしていて、思わず笑顔になるほど美味しかった。朝から気が張っていたのか、糖分が全身に染み渡っていくような感じがした。
親へのメッセージ
その後、ゲストの席を順に回って一人一人に用意した手土産を渡した。それは、日本でいう「引き出物」だった。
▼ムンバキとも話ができた
次に、私の両親と義母を前に呼んで、感謝の気持ちを込めてギフトを渡した。フィリピンで、結婚式で親にプレゼントを渡す習慣があるのかどうかは分からないが、私はどうしてもその気持ちを伝えたくて、夫にお願いした。
ギフトは、ドライフラワーと写真が入ったフレームに、それぞれが指定したメッセージを印字したものだ。
メッセージの内容は、オンラインで注文時にそれぞれが考えた。
私からのメッセージは、
「たくさんの愛を与えてくれてありがとう。お父さんとお母さんの娘で世界一幸せです。」
どこにでもあるような、定形文のような言葉だった。
一方、夫のメッセージは、イロカノ語で
「Inanusak ken inpapatik. Salamat po sa lahat. Ma and Pa.」
直訳すると、 ”I was patient, and I did my best. ―僕は忍耐強く、ベストを尽くした。”
短く、力強い一文。それは、まるで彼の人生そのものを映し出しているかのように思えた。
苦労知らずに育てられた温室育ちの私と、厳しい環境の中で自ら道を切り開きながら生きてきた夫。
まったく異なる地で、異なる環境のもと育った私たちが、あの日、たまたま路上で出逢い、そしてこの日を迎えたこと。自分で言うのもなんだけれど、やはり運命を感じずにはいられないのだ。
プログラム外なので、当然ゲストの注目は浴びていない。カメラマンだけが、やはり至近距離で嬉しそうに撮影していた。

14時ちょうどに「じゃあ、時間なんで僕たちはこれで。」とカメラマンから声をかけられた。撮りたての生データが大量に入ったUSBを渡され、カメラマンは次の仕事があるからと足早に帰っていった。
そしてさらに30分が経った頃、ぼちぼち酒もなくなり、全体がなんとなくお帰りムードになったところで、自然解散となった。
アダム
私たちは一度ホテルに戻った。民族衣装を脱ぎ、洋服に着替え、再び会場へと足を運ぶと、ちょうどアダムが到着したところだった。
「遅れるけどいくよ」と事前に連絡があったのだ。
アダムは夫の高校時代からの友人だ。
6年前、私が初めて彼に会ったとき、彼はバギオのとあるレストランでシェフとして働いていた。
当時、夫とアダムは「先に彼女ができた方に、もう片方が食事を奢る」という約束をしていた。私たちが付き合った日の翌日に、夫が私を連れてサプライズでアダムの職場に押しかけ、約束どおり食事をご馳走になった。忙しいディナータイムにも関わらずアダムが私たち二人のために作ってくれたシシグは絶品だった。
「遅くなっちゃったね」とアダムが笑いながら言った。
すでに結婚式は終わり、ゲストたちも帰りの支度をしている。しかし、そんなことはノープロブレムだ。
夫の実家で一緒にコーヒーを飲み、アフターパーティー(ケータリングディナー)に参加してもらうことにした。
パーティーの席で、酒に酔ったアダムが私に言った言葉が今でも忘れられない。
「俺はダニエルのことが大好きなんだよ。なんでかわかる?俺たちは高校の頃からの友達だ。いつも一緒に酒を飲んだり馬鹿なことをして笑ってた。ところが、俺がシェフになったら、みんながこういうんだ。「アダムはシェフなんてすごいな」「よっ!シェフ・アダム!」みんなが俺のことを『シェフ』と呼ぶようになった。それから、急にみんなとの距離を感じたんだ。でも、ダニエルだけは、ずっと俺を『シェフ』じゃなく、『アダム』として見てくれるんだよ。」
私はその言葉の意味がよくわかった。アダムがダニエルのことを大好きだという理由が私にも理解できたし、また私も同じ理由で、ダニエルのことが大好きだからだ。ダニエルは、私がどんな立場であろうと、いつだって私を「コノミ」として見てくれる。
アダムは酔っていたが、彼の言葉からは重みと温かさが伝わってきた。彼は、今では独立して飲食経営のコンサルタントとして新たな道を歩んでいる。
22時頃、すべてのプログラムが無事に終了した。 ゲストはそれぞれの部屋へと戻り、賑やかだった義父サイドの家族は、10人乗りのバンに乗り込んで、バギオへと帰っていった。
伝統的な結婚式の意義
ほんの少し前まで、あれほどの賑わいがあった場所が、一瞬にして静けさを取り戻した。ここで本当に結婚式が行われたのか、夢だったのではないかと思うほど、イフガオの夜は再び静寂に包まれた。
たしかに、結婚式は行われた。
あの日、ふとFacebookで目にした一枚の写真。そのユニークな風景に思わず「この結婚式がしたい!」と口にしたことから、すべてが始まった。
数え切れない、家族・親戚・友人・知人・村の人々の助けを借りて。
イフガオ族のシンプルな生活からは想像もできないような、村全体をあげての儀式だった。
日本にいながらリモートで計画を進める中、私はできるだけ村の人々に負担をかけたくないという思いから、「豪華なものは求めない。できるだけシンプルでいい」と度々口にしていた。しかし、その発言がいかに無知だったか、今ならわかる。
誰かがこう教えてくれた。
「イフガオで伝統的な結婚式をしようと思ったら、シンプルになんてなり得ない」
その言葉には重みがあり、私は軽率な自分の発言を恥ずかしく思った。古くから受け継がれてきた神聖な儀式を執り行うためには、伝統に忠実でならなければならない。
そしてまた、誰かがこう続けた。
「忘れかけていた伝統文化が、この結婚式を機に蘇った。」
その言葉が、私の心に深く残った。私たちの結婚式は、ただの儀式ではない。村の文化、家族の絆、そして歴史が息づく大切な瞬間だった。伝統的な結婚式を執り行うことが、いかに重要なことなのかを、身をもって実感した。それは、過去から受け継がれてきたものを、未来へと繋げるための大切な役割を果たすものだと。
今、思うこと
結婚式から一年が経った。
私たちは挙式後すぐに帰国し、相変わらず日本での生活を続けている。
ふと、思うことがある。
「村にずっと住むわけでもないのに、村を挙げて結婚式をしてもらってよかったのだろうか。」
良いか悪いか、それに対する答えはまだ出ていない。ただ、今のところは、このまま日本に定住するつもりだ。夫にこの気持ちを話すと、決まって「イフガオの人々は見返りを求めているわけじゃない。必要な時に、助け合う。ただそれだけだよ」と返ってくる。
きっと、現地の人に聞けば、意見は割れるだろう。
私にできることはなにか。
自分がしてもらったことを忘れず、少しずつ、継続的に、何らかの形で返していけないか、模索している。