フィリピンに恋して。
~フィリピン・バギオのリアルライフ~
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がんばれ夫!ニッポンの「察する文化」と言葉の罠

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ダニエル
ダニエル
昨日おとうさんが言ってた『人参がいいけど』の『けど』ってどういう意味?

前夜、じーじと娘の「野菜屋さんごっこ」を隣で見ていた夫からの質問。

日本語もだいぶ中堅レベルになってきたので、唐突に私に投げかけられる質問への回答も一言では片付かなくなってきた。

以下、夫が聞いた店主(娘)と客(じーじ)の会話。

店主「どーっちか?!」(訳:お客さん、今日は人参とジャガイモ置いてますけどどっちにしときます?)

「人参がいいけど」

店主「はい!ジャガイモでちゅ!」(訳:すまんね、あいにく人参は最後の一本なもんで。今日はジャガイモで勘弁してくれよ)

「あ、はい。どうもありがとう」

この「人参がいいけど」の『けど』の意味は何かという質問だ。

ダニエル
ダニエル
「白菜がいいけど」ならわかるよ。人参とじゃがいもが並んでいるところに「白菜がいいけど(ないみたいだね)」という意味でしょ?でも、人参がそこにあるのに「けど」というのは意味不明。だって「けど」に続くのは前の節を否定する内容じゃないの?

文法的なことは分からないので

「人参がいいけどなんでそんな事わざわざ聞くの?置いてあるんだから自分で選んで取るよって意味じゃない?」

などとテキトーに答え、翌日じーじ本人に直接聞くことにした。

コノミ
コノミ
昨日のさ、「人参がいいけど」の『けど』ってどういう意味で言ったの?

じーじ「…人参がいいけど(どっちでもいいよ)」かな

…いや、やっぱり『人参がいいけど(もしかしたら娘ちゃんは人参を渡したくないかもしれないからジャガイモでもいいよ)』かな

…いや、じつはそんなに深く考えてないんだけどね(笑)」

三言目が真意であることは間違いない。

こういう、ネイティブスピーカーでは考えもしないところを急に突かれてスラスラと答えてしまう日本語教師という人たちは本当にすごいと思う。

 

我が家でこの手の話題になると、簡単には終わらない。

『けど』が気になる夫に今度はじーじが質問した。

じーじ「ダニエル、仕事で年休をとるときになんていう?」

ダニエル「紙をこう持って… 『あの、すみません。また年休をとります。』って言います」

じーじ「年休をとりますって?」

ダニエル「そうです。年休をとりますです」

じーじ「日本人は、『◯月◯日ですが、年休をとらせていただけないでしょうか』って言ったりするよね(笑)」

ダニエル「ええ?!?That’s too long!」

コノミ「英語でいうと、Could you please allow me to take Nenkyu if it’s possible Sir…? みたいな(笑)」

これはさすがに冗談だが、○○させていただけないでしょうか というのは、まあ日本ではよく聞くフレーズだ。

たしかに、契約上あるいはスケジュール上、自分が年休を取っても問題ないのであれば(むしろ年休をとっても業務に支障がないということを自分自身で確認してからOKをもらう前提で上司に相談したりする)夫の言うように「年休を取ります」で良いはずなのだが、自分の権利を主張するときになぜだか申し訳なさそうな言い方をするお国柄。

じーじ「あとは、『年休を取りたいのですが…』と言って文章を最後まで言わない場合もあるよね」

ダニエル「でた!Hidden message (隠されたメッセージ)!」

タガログ語や英語の文章では「Hidden message(隠されたメッセージ)」はなく、フィリピン人の夫には日本語のこれが厄介らしい。

ダニエル「じゃあ、『暇ですけど』と言った場合、『けど』の意味はなに?」

コノミ「状況による」

じーじ「明日、暇ですか?って聞かれて暇ですけどって言う場合は、『暇ですけどあなたとは会いたくありません』じゃない?(笑)」

コノミ「いや、『暇ですけどなにか?』でしょ。実際に私が暇かどうかは内容によるからね(笑)だから「明日暇ですか?」って聞かれたら一旦暇かどうかは言わずに『何かあるんですか?』って聞くね(笑)」

この場合、「暇ですけど」の後に隠されたメッセージはの真意は(どちらかがそれについて言及しない限り)最後まで判ることはなく、発言者の意図と受け取り手の解釈次第ということになってしまう。

それでも日本人同士のやり取りではこのように最後まで文章を言わないというのはよくあることで、特に問題が起こることもなく会話が成立する。

日本2年目のフィリピン人夫からしてみれば、「暇ですけど何よ?!」「人参がいいけど何よ?!」「年休をとりたいのですが何よ?!」となるらしい。

私自身、この国の「察する文化」についてはつくづく厄介だなと思う。文章を完成させなくても伝わってしまうハイクオリティな言語のおかげで、お互いに自分の意見を言わずとも察し合うのが当然という考えが日本社会に定着してしまった。男女間の「察してよ」「言わなきゃわからないだろ」も、この罪深き日本語が生み出した不毛な論争。他の言語のように最後まで言い切らないと理解できないような仕組みであってほしかった。

日本語という曖昧な言語のせいで日本人が「察する能力」を身につけざるを得なかったのか、それとも元々この国に根付いていた「察する文化」の中で言語が変化していったのかは、興味深いテーマだ。